2009年06月16日

名前の由来について、ホーメルフーズ社は

名前の由来について、ホーメルフーズ社は自社のウェブサイトで「SPAMはspiced hamの略ではなく、SPAMの意味はあくまでSPAMである」と述べている[4]。

元の名称は「Hormel Spiced Ham」であったが、インパクトに欠けていたため、売り上げが落ち始めた1930年代に名称が公募され、1937年7月5日に「SPAM」が選ばれた。イギリスの料理作家マーガレットパッテン(en)は著書『Spam ? The Cookbook』の中で「SPAMの名前はホーメル社副社長の兄弟で俳優のKenneth Daigneauが考えたもので、彼はこれにより100ドルの賞金を得た」と述べている[5]。

由来について「当初、ホーメルフーズ社自身により"Shoulder of Pork And haM"の略であると発表された」と言う人もいるが、ホーメルフーズ社の公式サイトにこの記述は無い。 このほかにも、一種のジョークとして「Something Posing As Meat」、「Stuff, Pork And haM」、「Spare Parts Animal Meat」のようなバクロニムが考えられている[6]。

アメリカでは「スパム」がホーメル社製品以外の類似肉製品の呼び名としても使われることが多い。そこでホーメル社は、商標の普通名称化を避けるために商標ガイドラインを発表しており、「SPAMはすべて大文字で書かなければならない。また、『スパムランチョンミート』のように、形容詞的に用いなければならない」と説明している。

56グラムのスパムには、7グラムのタンパク質、2グラムの炭水化物、15グラムの脂質(アメリカ人が1日に必要とする量(US Daily Value)の23%)が含まれている。脂質のうち6グラムは飽和脂肪酸であり、170キロカロリーである。ナトリウムは1日の摂取量の3分の1に達する。ビタミンとミネラルの含有量は少なく、ビタミンAは0%、ビタミンCは1%、カルシウムは1%、鉄は3%である。アメリカの食生活改善サイト「NutritionData.com」は、「スパムは飽和脂肪酸とナトリウムが多いため、ダイエットや健康に良くない」としている[7]。

以下に世界各地におけるスパムに関係した事象を上げる。
アジアの美術
よの付く言葉
スポーツのあゆみ
くの付く言葉
名犬マルチーズ
雨模様
猫ニャン
柴犬について
生命の誕生
りんごのほっぺ
版画
オークション
映画館
射撃
応用数学
トリックアート
証券取引所
乗馬
高血圧症
ゲートボール

2003 年時点では、41か国でスパムが販売されている。英語版の本項目を参照のこと。
米ミネソタ州のオースティンではSPAM Jamの愛称で知られた地方祭典があり、この中でパレードや景気付けに打ち上げられる花火と並んで、調理されたスパムは人気がある。
なおHormel Foodsが誕生したオースティンにはスパム博物館がある。
米ハワイ州とグァムはスパムの需要が最も高い地域の一つである。寿司に似た外観のスパムむすびはハワイ州において多くの人に愛好されている。スパムを薄切りにして焼き、飯に海苔で巻かれて留められる。
環太平洋地域のサイパン・フィリピンを含む南太平洋諸島においても、スパムは一定の需要がある。
第二次世界大戦中、連合国軍(ソビエト連邦を含む)に広く供給されたスパムではあるが、特に日常的に食べさせられた英国軍の兵士は、食べ飽きたスパムに対して嫌悪感すら抱いたため、いまだに英国内ではスパムに対して否定的な感情も存在する。(下記参照)(但し、現在のところ、イギリスはアメリカ、韓国に次ぐスパム消費国である。)
韓国のプデ(部隊)チゲは、韓国的な辛いスープでスパムやハム、ラーメンなどを野菜と共に煮込む鍋料理である。なお、韓国では、スパムは地元食品会社、CJ株式会社がホーメル社よりライセンスを受けて韓国国内で製造されたものが一般的である。
ソ連軍へのスパム普及に関しては、米国が提供したスパムの配給にニキータ・フルシチョフが少なからぬ貢献を果たしたという。
1997年にセイヴ・フェリスが食品のスパムをモチーフとした「SPAM」という曲を発表している。
スパムのファンには、1992年にイグ・ノーベル賞栄養学賞が授与された。

2009年05月30日

芳心院

芳心院(ほうしんいん、慶長19年(1614年) - 元禄4年(1691年))は、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の側室。父の名は伝わっていないが、牛込榎町の徳円寺住職とされる。名は琴。

その経緯や奥勤めの開始年など詳細は不明。家光との間に子を産むことはなかった。慶安4年(1651年)に家光が亡くなった後は落飾して芳心院と号した。
不動産 興信所 精神医学 贈答品 インポ 墓地 音楽 旅行 教材 特産物 インプラント 調査 エイジ 老人 ローン アルバイト 仏壇 抜け毛 ゲーム リラク 美容 学校 スポット 検定 交通地図 豊胸 介護サービス 脱毛 求人募集 キャッシング リラク 子育て 介護 抜け毛 ギフト リラク 仏具 スクール 水族館 公園 観光 インプラント マンション 暮らし 宣伝 探偵 リラク 衣料 介護 寝具

元禄4年(1691年)に78歳で没した。墓所は不明。芳心院は子女をなさなかったことから、その出自などの詳細が伝わっていないものと思われる。

芳心院(ほうしんいん、生年不詳 - 文化5年閏6月7日(1808年7月29日))は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の側室。父は旗本の木村重勇。名は美尾、八十、筆など。

始め家斉との間に産まれた子どもは死産したが、その後は十一女・浅姫(松栄院)を出産。浅姫はその後、越前福井藩第12代藩主松平斉承室となる。

文化5年(1808年)閏6月7日、死去。墓所は東京都文京区の伝通院。

芳心院(ほうしんいん、寛永8年9月22日(1631年10月17日) - 宝永5年11月28日(1709年1月8日))は、鳥取藩主・池田光仲の正室。徳川頼宣の長女。名は因幡姫、茶々姫。

池田光仲に嫁ぎ、長男池田綱清(後の鳥取藩主)、次男池田仲澄(後の鹿奴藩主)を生む。

宝永5年(1708年)11月28日、78歳で死去。法名は芳心院殿妙英日春大姉。墓所は池上本門寺。

2009年04月27日

漁業

漁業(ぎょぎょう)とは、海面(海)および内水面(河川・湖沼)において、魚介類・クジラ等の水産物を漁を行うことによって収穫する職業、あるいは業種。水産加工業などとともに水産業の一種である。また、この漁業で漁撈活動に専業として携わる者のことを漁師という。

審美歯科・豊胸関連美容・コスメサーチ
税理士・アルバイト関連最強のビジネス情報
育児・ブライダル関連生活紹介ナビ
多汗症・健康関連ようこそ健康ネット
菜園・おもちゃ関連ショッピングタウン全国情報ガイド
学校・予備校・塾関連暮らしの教育検索
ホテル・キャンプ場関連トラベルナビ
脱毛・スキンケア関連美容全国情報ガイド
ラルース ビジネス支援情報
ペット・住まい関連ライフレシピナビ

従来の漁業では、収穫された魚介類は、機械的処置を施さない場合の長期保存が難しいため、漁場は加工地・消費地から遠くない範囲に限定されていた。

漁業の存続自体は自然環境の再生産に負うところが大きく、旧来の伝統的な漁具・漁法による漁撈活動では生産性は低かったものの、水産資源の再生産の限度を下回るものであった。

その後の漁具の改良・開発や、流通網の整備、冷凍保存技術の発達などにともない、生産量は増大し、漁場もまた地球規模に拡大した。その一方で、水産資源の乱獲が問題となっている。

生物資源の枯渇の問題や安定供給上の要請から、放流(栽培漁業)、養殖が盛んに行われており、放流魚の生態研究、養殖される魚種の開発などには各自治体や大学などの研究機関も積極的に関与し、「とる漁業」から「育てる漁業」への転換をはかる努力が続けられている。

漁業の区分
海面漁業
沖合漁業
沿岸漁業
遠洋漁業
海面養殖業
内水面養殖業
内水面漁業
栽培漁業

2009年04月10日

新ロマン主義音楽

新ロマン主義音楽は、19世紀後半から20世紀のクラシック音楽において見られた、ロマン主義音楽の再生・復古・擁護のいずれかを目論む音楽思想によって創り出された音楽作品のことを指す。

「新ロマン主義」という語は、西洋音楽史の他の時代区分と同じく、文学史ならびに美術史からの借用概念であるが、用法はそれらと異なっている。
西洋文学史や西洋美術史において新ロマン主義は、後期ロマン主義(またはロマン主義)の時代から次の時代への移行期を指す。
西洋音楽史においても、このような意味や文脈で「新ロマン主義」という概念を用いる例がなくもないが、後述するように、この事例については通常は別の語を用いる。
西洋音楽史において、より一般的な意味は、ロマン主義音楽がいったん終息した1920年代以降に、ロマン主義音楽の復権をもくろんだり、あるいは表面上、伝統回帰と見せかけるような創作姿勢をとることを言う。

しかしながら注意すべきは、新ロマン主義音楽が、単なる現代音楽に対する保守反動とは言い切れないという面もあることである。
なぜなら新ロマン主義音楽を目指した人々は、戦後の欧米におけるアヴァンギャルド中心の芸術音楽のあり方、とりわけ、聴衆の存在を無視した極端な作家主義や芸術至上主義に対して、疑問を投げかけているからなのである。

新ドイツ楽派 [編集]
19世紀後半のドイツ語圏(プロイセンおよびオーストリア=ハンガリー二重帝国の領地を含む)で主流となった、クラシック音楽の一大勢力のことを新ドイツ楽派という。そしてこの人たちの音楽家としての気質や傾向を、漠然と「新ロマン主義」と言うことがある。19世紀後半に、ベートーヴェンに対する個人崇拝が強まるとともに、ドイツとオーストリアにおける器楽曲(とりわけ交響曲)創作の停滞と衰退(実際には、そのように見えた現象)を引き合いに、評論家から音楽界の「堕落」を嘆く意見がしきりと出されるようになった。

音楽評論家としても健筆をふるったロベルト・シューマンや、リヒャルト・ワーグナーとフランツ・リストもこうした思想の中心人物であり、音楽史における進歩主義的発想と、音楽と文学の相互関係を力説した。こうしてワーグナーとリストを主軸として形成された勢力が、新ドイツ楽派なのである。しかし当時かれらは、ロマン主義音楽を再生させる先覚者と見なされたため、「新ロマン主義」と呼ばれていた。

ワーグナーやリストの直接の弟子から新ドイツ楽派の衣鉢を継ぐ者は、ユリウス・ロイプケやフェリクス・ドレーゼケを除いてほとんど現れず、グスタフ・マーラーやリヒャルト・シュトラウス、フーゴー・ヴォルフらによって、楽派の最後の烽火が上げられた。ちなみにマーラーとヴォルフはブルックナーの門弟である。

アントン・ブルックナーは、作風や創作姿勢において、文学性や標題的要素が見受けられないものの、半音階技法や拡張された調性、長大な旋律、巨大なオーケストラを用いたある種の音色操作といった特色において、新ドイツ楽派の巨匠と共通点を有しており、しばしば新ドイツ楽派の一員に数えられる。またブルックナーを、保守主義・伝統主義の立場をとったヨハネス・ブラームスと対比させ、新ドイツ楽派の進歩主義から交響曲を復興させた大立者と評価することもしばしば行われている。

新ドイツ楽派の歴史的位置付け [編集]
新ドイツ楽派は、19世紀初頭に生まれたリストやワーグナーと、19世紀後半に生まれたマーラーらとでは、歴史的に果たした役割が異なっている。前者は盛期ロマン主義音楽の体現者であり、後者はロマン主義音楽存亡の時期に、一方においてはその絶え間ない革新者であり続けながら、同時にロマン主義音楽の擁護者も兼ねなければならなかったのである。

リストやワーグナーは、音楽を軸とした「総合芸術」を訴え、ソナタ形式からの離脱や調性の際限ない拡張を推し進めつつ、音楽の自律性や抽象性に疑義を呈した。リストとワーグナーは「未来の音楽」を標榜しており、進歩主義ないしは急進主義に立って同時代の音楽に一石を投じようとしていた。

リストが、《ファウスト交響曲》などで調性感のあいまいな主題を多用したり、《調性の無いバガテル》などで密かに無調を試みたという例、あるいは、《ピアノ・ソナタ ロ短調》で複数楽章を一つに融解させた例は、作曲者の旺盛な実験精神を物語っている。
またワーグナーは、ベートーヴェンが最後の交響曲に声楽を導入したことを根拠として、オペラの時代の到来を叫ぶとともに、交響楽と歌劇を高度に融合させた楽劇の創出を強弁するようになる。
マーラーやリヒャルト・シュトラウス、ヴォルフらは、リストやワーグナーの最晩年に作曲活動に入っており、この二人の実験があらかたし尽くされた後で、ロマン主義音楽に残された最後の可能性に賭けた作曲家であった。

とりわけマーラーやシュトラウスにおいては、ジャンルの越境・解体、ある種の合成和音、巨大な対位法によって引き起こされる部分的複調や、12の半音が出揃う極端に半音階的なパッセージなどが明らかで、これらの方向をそのまま推し進めるなら、現代音楽への突破口になるものだった。
ちなみに、ブラームスと新ドイツ楽派の融和を目指したマックス・レーガーも、やはり20世紀初頭までに12音的な主題を用いている。
しかしながらマーラーの死後、リヒャルト・シュトラウスは、やがて楽劇《ばらの騎士》において、「モーツァルトへの回帰」やロココ趣味を嘯き、より穏当な方向に転換してしまう。進歩的な作曲家集団としての、新ドイツ楽派の歴史的役割が脆く崩れた瞬間であった。

調性破壊に向けて革新的な一歩を歩みだしたのは、アルノルト・シェーンベルクを指導者とする「新ウィーン楽派」であった。ここにおいて、新ドイツ楽派と新ヴィーン楽派の世代交代が行われたのである。

20世紀における新ロマン主義 [編集]

定義 [編集]
ヴァージル・トムソンによる定義
「(新古典主義の作曲家は、ごつごつした主題を愛用するが、)新ロマン主義の作曲家は、朗々と歌うような旋律素材を持ち合わせ、個人的感情を素直な形で表出する。新ロマン主義者は、純粋に美学的な立場にある。というのも、厳密に言えば、われわれは折衷的であるからだ。われわれは、誠実さについての問題を新しいやり方で示すことによって、現代の美学に貢献してきた。他人に感心されようとは思わないし、喜怒哀楽が大げさなのも嫌だ。うそ偽りない自分の感情、それだけが表現に値すると思われる。……情緒とは我々の被写体であり、時には風景のようなものである。しかし出来れば、その風景に人間が居るのが好ましい。」
ダニエル・オルブライトによる定義
「19世紀において、新ロマン主義という語は、(例えるなら)シューマンのように、音楽でもって心の動きを高度になぞるような作品のことであった。だが1920年代になると、主情主義のうちでも抑制の効いた、節度のあるものを表した。新ロマン主義は、表現主義者のゆき過ぎた表現を煎じ詰めて、変わらぬ思いという残留物を取り出すのである。」
したがって、20世紀前半の新ロマン主義音楽とは、ロマン主義への復帰を意味するものではなく、文字通りに「新しくなった」ロマン主義という意味だったのである。ロマン主義が「新しくなった」と前提することは、ヨーロッパ中心のロマン派音楽の時代がいったん終焉したことを認め、証明するものであった。それでもなお、20世紀において同時代のモダニズム音楽の人間不在を嘆き、芸術音楽に人間性を回復しようと目論んだ姿勢を見落としてはならない。伝統的・通俗的な音楽語法への回帰という発想の有無を除けば、同じような批判は、メシアンやジョリヴェらの同時代の作曲家とも共有される側面があったからである。

最後のロマン主義者と遅れてきたロマン主義者 [編集]
1920年代以降に、ストラヴィンスキーやヒンデミット、フランス6人組を中心として新古典主義音楽が盛り上がり、モダニズムの作曲家たちが国際現代音楽協会を興して互いに連携を取り合う中、「最後のロマン主義者」(リヒャルト・シュトラウス、ジャコモ・プッチーニ、ハンス・プフィッツナー、ヨーゼフ・マルクス、イルデブランド・ピツェッティら)が共同してそれに対抗しようとする動きは、まったく起こらなかった。またエドワード・エルガー、ジャン・シベリウス、セルゲイ・ラフマニノフらは、ほとんど第一線から退いていた。

一方で、19世紀末から20世紀前半に生まれた、より若い世代の中に、ロマン主義音楽の伝統に忠誠を誓おうとする作曲家が現れた。注目すべきは、いずれもアメリカ合衆国の出身であり、あるいはアメリカ合衆国に帰化した作曲家だったことである。

たとえば主な顔ぶれは、ハワード・ハンソン、エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルト、サミュエル・バーバーであった。その多くは早熟で、十代で作曲を始めており、長じてからもなお、昔からなじみのある音楽語法に忠実だった。
コルンゴルトやバーバーに明らかなように、だからといって決して頑迷な保守主義者ではなく、同時代のモダニズムに知悉し、それを程よく取り入れてもいる。
しかしながら完全に「新音楽」に切り替えるより、自分にとって自然と思われた音楽語法や作曲技法を成熟させることをよしとした。

社会主義リアリズムと新ロマン主義音楽 [編集]
旧ソ連と、東欧におけるその衛星国では、スターリン体制以降、社会主義リアリズムが挙国一致のもとに推進された。社会主義リアリズムの音楽とは、共産党の指導の下に推奨された、大衆的で通俗的な性格の芸術音楽のことであり、手早く言うなら、19世紀後半の「分かりやすい」国民楽派の音楽様式に回帰することにほかならなかった。

19世紀のロマン主義音楽は、作曲家自身の主観が反映されているのに対し、社会主義リアリズムの音楽は、決まりきった枠組みが他者に決められた上で、情緒的に響くように指導されて作られたという点において、確かにこれも「新しい」ロマン主義であると言えた。しかし、かなり倒錯したロマン主義であったことも事実である。

アルフレット・シュニトケは、初期にはマーラーやショスタコーヴィチ、新ウィーン楽派に影響を受けつつ、無調と表現主義的な作風を追究したが、後に、政治的な強制に拠らずに、自発的にポピュラー音楽からの引用や、調的・旋法的な要素の回復へと乗り出した。

後の時代への影響 [編集]
戦後西側における前衛音楽の一時的な盛り上がりと活況の後、1960年代末のその停滞にともない、調性や伝統形式、明確な旋律要素の顕在化への回帰が試みられるようになる。ただし、現時点において必ずしも主要な流派となっているとはいえず、その手法や音楽思想にも統一性が見られるわけではない。

たとえば、伝統回帰が露骨な作曲家(コーネリアス・カーデュー、ジョージ・ロックバーグ、デイヴィッド・デル・トレディチ、マイケル・トーキー、別宮貞雄、原博、吉松隆)、近代音楽に戻っているがロマン派音楽にまでは辿り付いていない作曲家(ジョージ・ベンジャミン、マーク=アンソニー・タネジ、武満徹)、民族音楽やポピュラー音楽・商業音楽を仲立ちとして和声と旋律を再発見した作曲家(ルチアーノ・ベリオ、マイケル・トーキー、小鍛冶邦隆、中川俊郎、藤家渓子)といった相違が見られるうえ、作品またはジャンルごとに、伝統的な音楽語法と現代的な音楽語法を使い分ける作曲家も少なくない。

いずれにせよ、これらの音楽家に共通する作風を言い表すことができるとすれば、聞き手の存在を自覚し、「聴かせる」ことより「聞かれる」ことを前提とした、感覚的で記憶しやすい、親密な作品づくりを目指しているという姿勢であろう。

レコーダ ケース チトク 時代の扉 僕達の舞台 フットホ セット リーダー ムーミン カーラ ヌーベ エンジェル ケーエフ マスメ ブラウ フェース コモン キモスタ スクハ プリン ユーロダ マリーナ ジョイント 天慶 シーザー ビブ シンプトン カラー ロケオ カザノ カラー レタッ サラマ トラン ロスタ マカラ グルプ アニメ クレス シーズンオ トンネル セリウ 楓の小舎 杜仲 サーチズミ ピース パラグ チポフ チョイス ムード

2009年03月26日

BDSM

BDSM(ビーディーエスエム)とは人間の性的な嗜好の中で嗜虐的性向を一纏めにして表現する言葉である。
タイム ハンド トリニタ テンシル ファクトリー ふたつ星 はなの舞 ブロイラー スペクタ だっと ラマズダ キーバス 後ろゆび ドラッ エンド もくと トップラ ヒップ トルテ ドーパミン ボケ インタ ファミ テレポ ぱらぴーの タリカ ピューレ カピタン セブサー 春一輪 レイガイド ポット レグルス ロビイ 秘密の花園 コバノ リンワキ ソフトサーチ ムチャコジ オルガン ゲッツ スプーン ランタ しゅいろ うしべに パンパ ブザー ロカール ランダム サブアリ

「B」…Bondage(ボンデージ)
「D」…Discipline(ディシプリン)
「SM」…Sadism & Masochism(サディズム & マゾヒズム)
近しい文脈で語られる別の略語として、D&S、DS、D/S…Domination & Submission(ドミネイション:支配 & サブミッション:服従)と呼ばれる言葉も有る。そのためSMと区別してBDSMはBondage & Discipline(又はDomination) & Submission & Manipulation(マニピュレーション:操作)等と原義が割り振られる事が有り、解釈は様々である。ボンデージは直訳すれば「捕われの身分」であり、その状態を指す。ディシプリンは「懲戒」を意味し、西洋では体罰による厳しい躾も意味する。サディズムは加虐性向、マゾヒズムは被虐性向であるので、状況としての嗜虐と行為としての嗜虐を含む広範な言葉と言える。しかし一般的な欧文略語と同じように語感が一人歩きし始めている。
BD、DSに代表される「囚われた状況」は童話や物語に多く見られる「囚われのお姫さま」に似た状況を指す。支配する側が強圧的であり支配される側がそれに従わざるを得ない、と言う状況はBD、DSには欠かせないシチュエーションである。必ずしも性行為は必要ではなく互いに趣味を理解し合ったパートナー同士が合意に基づいて状況を楽しむ事が大前提である。そのため性的ロールプレイ(後述)になる事が多い。

行為としての嗜虐 [編集]
SMに代表される行為としての嗜虐は主に性行為に関連付けられて語られる事が多いが、一般には性行為を伴わなくても粗暴な行為をする人間がサディストと定義される事も少なくない。根性論を持ち出し選手をしごく監督や、部下に無理難題を押し付ける上司がその例である。しかし本来はサディズムは性行為の一環としてパートナーを叩いたり、鞭打ったりと言う行為により性的興奮を覚える性的嗜好を言う。そのためただの暴力と区別する為に、打擲される理由付け(パートナー同士の合意)が不可欠である。

BDSMプレイについて
ロールプレイ
パートナー同士が誘拐犯と被害者等お互いに役柄を決めて行なう。傍目から見れば実際に犯罪を行なっていると間違われる場合も多い。
エイジプレイ
日本では幼児プレイが一般的であるが、父と娘、母と息子等年齢差の有る役割として行なうロールプレイ。
ヒューマン・アニマル・ロールプレイ
パートナーを人間ではなく動物として扱う。ネコ、イヌ、ウマ(ポニーガール)等が欧米では人気がある。
オークションプレイ
擬似的な人身売買の商品とするプレイ。
ポゼッションプレイ
パートナーを家具にする。ベッドのマットレスをくり抜いて入れその上で寝る、ソファーとクッションの間に入れる、椅子にする等。

2009年03月11日

ヨセミテ国立公園

ヨセミテ国立公園(ヨセミテこくりつこうえん、Yosemite National Park)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州中央部マリポサ郡及びツールム郡にある自然保護を目的とした国立公園である。

ヨセミテは、先住民の言葉でグリズリーベアを意味する「ヨセムミティ」が変化したものという説が一般的だが、詳細は不明である。

1864年、州立公園に指定。1890年、国立公園に指定。1984年、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された。
公園の広さは3,081平方キロメートルで、シエラネバダ山脈の西山麓に広がっている。ここには年間約350万人が訪れるが、その殆んどは公園全体の1パーセントにも満たないヨセミテ渓谷(18平方キロメートル)に集中している。

1984年に世界遺産に登録され、そそり立つ白い花崗岩の絶壁、そこを流れ落ちる多くの巨大な滝、谷や木々の間を流れる澄んだ大小の川、ジャイアントセコイアの巨木の林、生物学的な多様性が世界的に知られることとなった。 公園全体の約89パーセントは手付かずの自然のままである。また、ヨセミテは初めて連邦政府により指定された国立公園である。第一号の国立公園(Yellowstone National Park)では無いが、ヨセミテを紹介したジョン・ミュアー(John Muir)を初めとする先達の貢献が米国の国立公園の創設に非常に重要な役割を果たした。
百番 セアニア シベリ チョップ キャッチ キラー マンダラ 宙船日本 マスカット ドリネ チェンバロ グラス ベッド スワット てる坊主 つりばな ナット ソース ギャザー チャチャ フォー ソフト 楽隊 パラチフス トゥル キング チープ ルリマツリ ブルゴー デポプロ トロピカル キト日本 コンアレー 台風対策 アイライナ ヒズボラ ルーフ タイム マシュマロ レギュラ ウラン ヨーヨー ファ ナステ ダンス たるみず グロッサム スイム はまます よどえ

ヨセミテ国立公園は、シエラネバダ山脈の中で最大規模の、もっともまとまった生態地域であり、多様な植物、動物の生息地域である。公園は高度600メートルから4,000メートルの地域を含み、次の5つの主な植生帯からなっている。シャパラル/オーク森林帯(chaparral/oak woodland)、低地・低山植生帯(lower montane)、高地・低山植生帯(upper montane)、亜高山帯(subalpine)、および高山帯(alpine)である。カリフォルニアには7,000種の植物が生えているが、そのうちの50パーセントがシエラネバダ山脈にあり、20パーセント以上がヨセミテ公園内に見られる。160種以上の貴重な植物の生息地域があり、その形成にはヨセミテの他に類を見ない地質学的な生い立ちと、特異な土壌が寄与している。また、アメリカグマや、アライグマなどの哺乳類が約100種類、鳥類が200種類以上生息している。またセコイアの大木でも有名である

ヨセミテの地質学的特徴は、大部分を覆う花崗岩とそれより古い岩の組み合わせにある。およそ1,000万年前にシエラネバダ山塊が隆起し、その後傾斜して、西側の緩やかに傾く高原と、東側の急峻な山肌を形成した。この傾斜により川の流れは更に激しさを増し、湾曲して山をえぐり急峻な渓谷を生んだ。約100万年前に、氷河が高山の草原帯を覆い、谷に沿って流れ下り始めた。氷河期初めには、ヨセミテ谷を埋め尽くした氷の厚さは1,200メートルに達したと考えられている。氷河の流れによって作られたU字谷の美しい景色が、いま旅行者を魅了している。

ヨセミテ国立公園はカリフォルニア州のシエラネバダ山脈中央部に位置している。1,200平方マイル(約3,000平方キロメートル、茨城県全体の約半分の広さ)の公園敷地には、無数の湖及び池、1,600マイル(2,600キロメートル)の小川、800マイル(1,300キロメートル)のハイキング・コース、及び350マイル(560キロメートル)の道路が含まれる。

ヨセミテは自然環境保護地域に取り囲まれている:南東部でthe Ansel Adams Wilderness、東部でInyo National Forest, 北東部でthe Hoover Wilderness、及び北でthe Emigrant Wilderness。

有名なポイント
トンネル・ビュー Tunnel view
バレー・ビュー Valley view
センティネル・ブリッジ Sentinel Bridge
スウィンギング・ブリッジ Swinging Bridge
インスピレーション・ポイント Inspiration Point
ヨセミテ滝 Yosemite Falls
ブライダルベール滝 Bridalveil Fall
バーナル&ネバダ滝 Vernal and Nevada Fall
グレイシャー・ポイント Glacier Point
ハーフドーム Half Dome
エル・キャピタン El Capitan
トゥオルム・ミドゥ Tuolumne Meadow
ダナ・フォーク Dana Fork
マリポサ・グローブ Mariposa Grove
テナヤ・レイク Lake Tenaya
ミラー・レイク Mirror Lakes
カセドラル・レイク Cathedral Lake
トゥエンティ・レイク Twenty Lakes (ヨセミテの東に位置するが見逃せない場所)

アクセス
ここまで行くにはサンフランシスコから公園まで車で約4時間から5時間、ロサンゼルスからだと約6時間程の所要時間を必要とする。サンフランシスコとBakersfieldを結ぶアムトラックSanJoaquin号の途中駅、マーセッド(Merced)駅かフレズノ駅で下車すると近い。マーセッド駅からはヨセミテ渓谷行きのYARTS(Yosemite Area Regional Transportation System)のバスが出ている。 フレズノにはフレズノ・ヨセミテ国際空港もあり、一日数便がサンフランシスコとロサンゼルスからここに離着陸している。

2009年02月22日

トク・ピシン

トク・ピシン(Tok Pisin、トク・ピジンやネオ・メラネシア語とも)とは、英語を土台としたクレオール言語の一つであり、パプアニューギニアの公用語の一つである。約120万人がトク・ピシンを第一言語として使用し、300万人から400万程度が第二言語として使用していると見られている。

トク・ピシンとは、「ピジン言語」(tok=単語・言語、pisin=ピジン)を意味する。
粉雪 きくらげ せつごう ラックタイ ドンパ クーラント リコピ サイクル チャドル ドライブス ダウWEB ブイゾーン プレ ドライ ネック ヒーリング ビーチ プードル ルレット スクレ ジーディ ペチュニア イーゼル アブラカ センター ゆり根 アカシジミ クール プロシー キッコ スリー ラケナリ さびいろ しのだけ ハイ ブレー セリーグ タブロー オクラ ナビスト てくぼ ファンネル バイド 光の街 ジャロ ユーロ イギリス ストーリ 気合だ メンズリブ

トク・ピシンの成立は、クイーンズランドやその他の島々にプランテーションのため送り込まれた、様々な言語を母語としていた太平洋諸島の労働者が接触したことに始まる。互いの意思疎通を図るために、主に英語を元にしたピジン言語を築いていく。このピジン言語は、ドイツ語やポルトガル語、オーストロネシア系の言語(連れてこられた労働者の様々な母語)からも取り込んで発展していく。この英語を土台としたピジン言語は、ニューギニアがドイツ統治下に置かれた時期にトク・ピシンとして確立することになる(当時は、ドイツ語を土台とした、別のピジン言語も存在した)。

このトク・ピシンは、支配する側と支配される側の意思疎通言語として、そして母語が違う者同士の共通言語として、つまりリングワ・フランカとして機能するようになる。同様に発展していくピジン言語・クレオール言語には、バヌアツの公用語にもなっているビスラマ語やソロモン諸島で用いられるピジン語がある。

文字
ラテン文字を使用し、基本的には表音的に書き表す(e.g.tisa 'teacher')。英語の綴りをそのまま借用する場合もある。

音素
地域差もあるが、18子音(b,d,(f),g,(h),(j),k,l,m,n,p,(r),s,t,(v),w,y,ng)・5母音(a,e,i,o,u)からなる。

文法
人称代名詞
1人称.単数.     mi
1人称.双数.除外.  mitupela
1人称.複数.除外.  mipela
1人称.双数.包括.  yumitupela
1人称.複数.包括.  yumi
2人称.単数.     yu
2人称.双数.     yutupela
2人称.複数.     yupela
3人称.単数.     em
3人称.双数.     tupela
3人称.複数.     ol
 ※-tu-を-tri-にかえ、mitripelaとして三数を作る人もいる。

名詞
普通、数は特に表現しないか、数詞を用いて表現する事が多い。特に複数形を作りたい場合、3人称複数形代名詞olを用いて、"pik"「豚」に対して"ol pik"「豚たち」とすることができる。3人称複数形代名詞を用いて複数形を作るという現象はピジン言語によく見られるものである。

数詞
1 wanpela
2 tupela
3 tripela
4 fopela
5 faipela
6 sikispela
7 sevenpela
8 etpela
9 nainpela
10 tenpela
※-pelaは形容詞を表す接尾辞。数詞は形容詞的に用いられる。人称代名詞のmipelaの-pelaは複数を表しているように見えるため、「複数の意味がある」と言われることもあるが、間違いであり、本来あるべき数詞部分が省略されたのである。

形容詞
-pelaという接尾辞を持つものが多い(例: gutpela"good,良い"、bikpela"big,大きい")が、述語形容詞は-pelaを落とすことがある。(例: strongpela man"強い男"、Man i strong."男は強い")  また、gutpelaの-pelaを落とし、gutとすると、副詞的に"well,良く"の意味で用いられる(例:Mi stap gut."私は元気です。")。

動詞
自動詞と他動詞で形態上の対立があり、他動詞には-imという接尾辞が付く。(例:op「あく」opim「あける」) Dua i op.「ドアが開いている。」Yu opim dua.「ドアを開けて。」

2009年02月06日

田中正造

田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 大正2年(1913年)9月4日)は、明治の代議士。当選6回。足尾銅山鉱毒事件の告発者として有名である。幼名、兼三郎。
カツサン オーダー メルトン キートーン 市田柿 オーララ ミルク 総合山風 スズラン レングス もくず フリル ジスト カッター チュニジ 紅の空 ピンプリ 凪笛 蜃気楼 除の鐘 パトロール オーバー リンター ダイア ヒプノ フィート ズーム ミニコミ 総合大河 マシン トッシュ テトラード フラワー シーエス ラカイト フシグロ トラッ オパール ネービー リスク ザーボード ボエポン ダイジ マター スケール セクト アスン アサイン チューン アース

下野国小中村(現在は栃木県佐野市小中町)生まれ。名主の家ではあったが、田中本人によれば村では中流でそれほど裕福な家ではなかったという。

父の跡を継いで小中村名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、これが元で明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄され(この時の牢は縦横高さともに1mほどしかない狭いもので、立つことも寝ることもできない過酷な構造だった)、翌年出所。

明治3年(1870年)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市)の官吏となった。翌年、上司の木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され、投獄されている。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。

明治7年(1874年)に釈放されて小中村に戻り、明治9年(1876年)まで隣の石塚村(現在の佐野市石塚町)の造り酒屋蛭子屋の番頭をつとめた。幕末に大沢カツと結婚しているが、その結婚の年については諸説ある。

初期の政治活動
明治11年(1878年)、区会議員として政治活動を再開。栃木新聞(現在の下野新聞)が創刊されると、翌年には同紙編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えた。

明治13年(1880年)、栃木県議会議員。明治15年(1882年)4月、立憲改進党が結党されると、その年の12月に入党している。当時県令だった三島通庸と議会で対立。自由民権運動のなかで、加波山事件に関係したとして逮捕される(1885年)が、三島が異動によって栃木県を去ると年末に釈放された。明治19年(1886年)、県会議長。

足尾鉱毒事件
衆議院議員
明治23年(1890年)、第1回衆議院議員総選挙に初当選する。田中は帝国議会でも当初は立憲改進党に属していた。この年渡良瀬川で大洪水があり、流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。

明治24年(1891年)、鉱毒の害を視察し、第2回衆議院議会で鉱毒問題に関する質問を行った。明治29年(1896年)にも質問を行い、群馬県邑楽郡渡瀬村(現在の群馬県館林市)の雲龍寺で演説を行った。

明治30年(1897年)になると、農民の鉱毒反対運動が激化。東京へ陳情団が押しかけた。当時このような運動には名前がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。田中は鉱毒について国会質問を行ったほか、東京で演説を行った。農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約、実際に着工されるが、効果は薄かった。

川俣事件記念碑明治33年(1900年)2月13日農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現在の明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された。これを川俣事件と呼ぶ。この事件の2日後と4日後、田中は国会で事件に関する質問を行った。これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説であった。2日後の演説の途中で当時所属していた憲政本党を離党した。当時の総理大臣山縣有朋は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。この年の川俣事件公判の傍聴中、あくびをしたところ、態度が悪いとして官吏侮辱罪に問われ、裁判にかけられた。なお、川俣事件は仙台控訴審での差し戻し審で、起訴状に担当検事の署名がないという理由で明治35年(1902年)に公訴不受理(一審で無罪だった者については控訴棄却)という判決が下り、全員が釈放された。

議員辞職 - 直訴
明治34年(1901年)10月、田中は議員を辞職した。しかし鉱毒被害を訴える活動はやめず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行った。

明治天皇に直訴を行う様子が刻まれている「田中正造翁遺徳の碑」
(茨城県古河市) 古河は谷中村=現渡良瀬遊水池周辺最大の都市で支援者も多く、また田中らが上京時に東北本線古河駅を利用したことから現在まで縁の多い地の1つである12月10日に足尾鉱毒事件について明治天皇に有名な直訴を行う。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の言及による)、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っているが、カツ本人は離縁されてはいないと主張している。

明治35年(1902年)、川俣事件公判の際にあくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役。このとき聖書を読み、影響を受けた。この後の田中の言葉には「悔い改めよ」など、聖書からの引用が多くなる。ただし、キリスト教への改宗はしなかった。

その後の活動
明治35年(1902年)、渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画が浮上。建設予定地となっていた埼玉県川辺村・利島村の反対運動に参加。計画は白紙になった。

明治36年(1903年)には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。田中は明治37年(1904年)7月から実質的に谷中村に住むようにしている。同年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事がはじめられた。

明治39年(1906年)、谷中村議会は藤岡町への合併案を否決するが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表。谷中村は強制廃村となるが、田中はその後も谷中村に住み続けた。明治40年(1907年)、政府は土地収用法の適用を発表。「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出たが、田中は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。結局この土地が正造の終の棲家となる。

明治41年(1908年)、政府は谷中村全域を河川地域に指定。明治44年(1911年)、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された。

正造の最期
土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、大正2年(1913年)7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かけ(運動資金援助を求める旅だったともされる)、その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現在の佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。下野新聞によれば、死因は胃ガンなど。

財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死んだときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現在の小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。

雲龍寺で、9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現在の佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は数万人ともいわれる。

田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、墓は6箇所にある。なお、このうち1箇所は平成元年(1989年)に公表されたもので、それ以前の文献では5箇所とされていた。

足尾銅山は昭和48年(1973年)に閉山となったが、現在でもその跡は残っている。

正造の墓の所在地

雲龍寺にある田中正造の墓佐野町(現佐野市) 惣宗寺 - 正造の本葬が行われた寺
渡瀬村(現館林市) 雲龍寺 - 正造の密葬が行われた寺。また、鉱毒対策事務所が置かれていた寺でもある。
旗川村(現佐野市)浄蓮寺 - 田中家の菩提寺
藤岡町 田中霊祠 - 田中を葬るために谷中村跡につくられた祠。後に藤岡町堤外に移転。
利島村(現北川辺町) - 川辺村民と利島村民が協力し、利島小学校(現北川辺町立西小学校)敷地内につくった。
久野村(現足利市) 寿徳寺 - 1989年に公表された6番目の分骨地。

正造の祖について
『姓氏』(樋口清之監修・丹羽基二著)によると、『尊卑文脈』に記している岩松氏の一族という。足利義純の子の岩松時朝(時兼の弟、泰国の兄)が田中次郎と称し、足利郡田中郷に定着したと伝わる。子の時国、孫の満国は足利尊氏に従い、戦功を立てて正造の代まで至ったという

2009年01月22日

アルカーイダ

アルカーイダ(アラビア語表記 : ??????? al-qāida、英語表記:"Al-Qaeda")は、サウジアラビア出身のアラブ人、ウサーマ・ビン=ラーディンを指導者とするスンニ派ムスリム(イスラム教徒)による国際武装テロリストのネットワークとされる。アラビア語で、「アル」は定冠詞、「カーイダ」は「座る」を意味する動詞「カアダ(アラビア語: ??? )」の派生名詞で「大本」、すなわち「基地・基盤・座」を意味し、英訳するとThe Base。日本ではアルカイダと記述されることが多い。

イスラーム主義急進派の系統に属し、反米・反ユダヤを標榜する。1990年代以降、主としてアメリカ合衆国を標的としたテロ行為を実行したとされ、多くの事件について自ら実行を認めている過激派、国際テロ組織である。

よく知られるように、組織のトップはウサーマ・ビン=ラーディンであるとされる。財力に恵まれていた彼は組織起ち上げのパトロンであった。一方、組織のナンバー2とされるアイマン・ザワーヒリーは理論的支柱であり、ビンラーディンから見ても信仰と活動の先輩格であった。

2001年のアメリカ同時多発テロ事件を実行し、世界に大きな衝撃を与えたとされている。

以後「対テロ戦争」として遂行された同年10月のアメリカなどの多国籍軍アフガニスタン侵攻で、それまでアルカーイダに庇護を与えてきたアフガニスタンのターリバーン政権が打倒されて資金的・人的に打撃を受けたとされ、アルカーイダの組織は一つ一つが小さな組織に分離しそれぞれが活動を行っている。一方で、オウム真理教のような明確な指揮命令系統を有する組織ではなく、過激思想を持つ者が勝手にアルカーイダを自称しているだけという説もある。

またアルカーイダは、その句の使用者にとって、警鐘として使用していると解釈することもできる[要出典]。ヒジュラ暦の第11月は、ズー・アル・カーイダ(Dhu al-Qi'dah ?? ?????? )である。この月の名称は、前述の翻訳の句と「ズー」という所有格とから構成され、「(神が)所有する(安住の)基盤」という意味合いで、「安住の月」と和訳されることが多い。したがって、アラビア語文化圏の視点から、アルカーイダを解釈すると、「神の所有にない基盤」と訳すことができる。すなわちそれは「異教の基盤(The matrix)」を意味するわけであり、アルカーイダとは、異教の文化圏から侵略を受けた人々並びに世界のムスリムに呼びかける警鐘として使用されているとも解釈できる。

起源
アルカーイダは、ソ連のアフガニスタン侵攻に対抗して、CIAがイスラム義勇兵(ムジャーヒディーン)などと連帯させ組織し、訓練、育成したテロ組織であるとの説(BBC放送のドキュメンタリー番組で主張された)がある一方、NHKスペシャルの報道ではビン=ラーディンがスーダン滞在中に建設事業を進めるかたわら編み上げた組織だとされている。

またその後、湾岸戦争をきっかけにアメリカが軍をイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)・マディーナ(メディナ)を領有するサウジアラビアに常駐させたことが、イスラエルを支援するアメリカに対する心情的な反発をもってきたムジャーヒディーンたちの意識と結びつき、反米闘争へと走らせたと言う説もある。ケニヤとタンザニアのアメリカ大使館が爆破された報復として、クリントン政権がアルカイダの拠点とみなすアフガニスタンの軍事キャンプ、スーダンの製薬工場に巡航ミサイルトマホークを撃ち込んだことで、アメリカとの対立は決定的なものとなった。

9/11テロへ
1990年代に始まった闘争は年を追って過激になり、1993年にはニューヨークの世界貿易センタービル爆破事件、同年からの在サウジアラビア米軍基地爆破事件、ケニア・タンザニアのアメリカ大使館爆破事件、イエメン沖の米艦コール襲撃事件に関与したと言われ、ついには2001年のアメリカ同時多発テロ事件を引き起こしたとされる。

そのほか、東南アジア各国の反政府イスラム過激派組織とのつながりも疑われている。2003年末以降はアメリカ・イギリスの占領統治下にあるイラクにアルカーイダ系の活動者が多数潜入・潜伏し、2004年春にアメリカ人、日本人観光者、韓国人などの民間人が殺害された事件を実行したとみられている。また、2008年に米オバマ新政権に挑発的な報道をしている。

東トルキスタン
新疆ウイグル自治区では、中華民国時代からイスラム教徒のウイグル人は、東トルキスタンとして自立しようとする東トルキスタン独立運動がある。そのうち東トルキスタンイスラム運動は中華人民共和国の共産主義政権からの独立を目指すに、「あらゆる手段を講じても独立を勝ち取る」と宣言しているが、その中でアルカーイダとの係わりを示唆しており、今後テロのターゲットがアメリカに加えて中国全土にも広がる恐れがあると懸念を示していると、2008年4月11日の夕刊フジで報じられた。実際に2008年7月21日に雲南省昆明市内で複数のバスを爆破されたほか、カシュガルで警察に対するテロ事件も発生している。

そのためアルカーイダと関係があったアメリカ政府によって断定されており、現在でも強いつながりが疑われる組織としてアメリカ、中国両政府から認定されている[2]。

イスラム圏での評価
久しくイスラム教の指導者はテロがあるたびに「テロはイスラム教の教えに反する」との声明を出している。

2005年12月9日に閉幕したイスラム諸国首脳会議でも、あらためてテロはイスラム教の教義に反すると明確化された。しかし、イスラム教として、テロ指導者が背教者であるとのファトワーは出していない。また、殺害への懸賞金どころか、首謀者等の逮捕についての努力も見られない。

一般的に、ムスリムの多数派、とくにイスラム諸国の政府や宗教指導者はアルカーイダの破壊行為をテロと批判している。しかし、イスラエルやアフガニスタン、イラクの情勢に関して日常的に反米意識を募らせているムスリムの中にはアルカーイダに心情的な共感を寄せる向きがあるとも言われる。9/11テロの際には狂喜乱舞するパレスチナ民衆の映像がマスコミを通じて全世界に流れた。構成員に関しては、異教徒・非イスラム的な生活習慣に取り囲まれ、孤立を感じたヨーロッパなどのムスリム移民の間からアルカーイダに身を投じる者があったことが指摘されている。

その一方、いわゆる「イスラム原理主義過激派」の起こすテロが一般のムスリムをも巻き込んできたこと、またイスラム教が説く慈悲・寛容の精神から外れているとして、「過激派」は現地でもムタタッリフィーン(過激主義者)と称され、社会から異端視されることが多いとされる。

日本での活動
日本との関わりでは、1994年のフィリピン航空434便爆破事件はアルカーイダによるものであるとされ、日本人一人が死亡した。 またアメリカで逮捕されたアルカーイダ構成員からの証言によると、2002年に日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップでテロ活動を計画したが、日本にイスラム教徒が少なく協力者が得られないなどの理由で白紙化されたとの話がある。2004年5月には、過去数年に新潟県にアルカーイダ系の組織の幹部が一年以上にわたり潜伏し、物資や資金の調達などをおこなっていたことが判明した。彼らは偽造旅券で日本に入国し、出入国を繰り返していた。

2004年10月にはイラクでアルカーイダと関係があるといわれる「イラクの聖戦アルカーイダ組織」によって日本人青年が殺害された。詳細についてはイラク日本人青年殺害事件の項を参照のこと。
スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ

2007年2月、米ABCテレビはパキスタン情報筋の話として日本国内でアルカーイダと関係の深いパキスタン人武装組織によるネットワーク化が進んでいると伝えた。

2007年10月29日、日本外国特派員協会で行われた講演の中で、鳩山邦夫法務大臣が「私の友人の友人がアルカーイダ」と発言。「2、3年前は何度も来日していたようだ」とも語った。 現役閣僚の発言として大きな波紋を呼び、のちに一部発言を訂正した。 詳しくはアルカイダ発言問題を参照のこと。

組織
組織の実態についてははっきりしないことが多い。

a.アルカーイダはその際立った組織力を大きな特色としながらも、国家の中に作られたもう一つの国家ともいうべき「細胞」同士のネットワークだからである[3]。

b.アルカイダは組織というより、CIAによって作成されたデータベースであると田中宇は主張している。。

実際、アルカイダには軍隊のような顕在化した指揮命令系統はなく、各地で発生した反米主義者の中小集団が緩やかに繋がりを持っているだけという説が内外のイスラム研究者達から唱えられている[要出典]。この説によれば、各集団はそれぞれ自立的であり、必要に応じて協力をしたりされたりという関係に過ぎない。従って、中心となる総本部も最高指導者も存在しない(ビンラーディンは精神的シンボルに過ぎない)ため、頂上作戦は不可能である。上記の説に則ると、各集団がなぜ武装闘争を始めたのかその動機となった根本的要因を解決しない限り、アルカーイダの壊滅は困難であるとされる。

テロの特徴
事前にテロの予告を行うことは少ない。予告されることはあるが、これまでに実際にテロが行われたことは無い。ただしこれが本当に予告であったのか、アルカーイダから発せられたものであるのかは検証のしようが無く、また、警戒によって阻止されたものであるのかどうかも確めることはできない。

一方で実行後にインターネット等により犯行声明を行う例が多く見られるが、「アルカーイダの公式サイト」というものは厳密には存在せず、あくまでも「アルカーイダ系とされる組織のサイト」である。また、これらのウェブサイトは攻撃を受けやすい傾向にあり、閲覧しづらいこともある。更に突然閉鎖、もしくは消滅することや、逆に突然開設や再開されることも多い。こうしたウェブサイトは一般にレイアウトが整備されており、メンバーに優れたウェブデザイナーがいることが推測される。また、組織によっては複数のミラーサイトを有することもある。これらのサイトにはメールアドレスを載せてあることもあるが、多くの場合はアカウントもしくはドメイン名の失効などにより使用できない。また、このようにアカウントを作っては削除されるといった繰り返しは頻繁に行われていたと見られ、ドメイン名やアカウントには組織名に数字を付け足したものが使われていることもある。

こうした事情ゆえか、予告・犯行声明の別を問わず、自らのウェブサイトではなく既存するほかの全く関係の無い掲示板などが使われることもある。特に日本は掲示板やアップローダーを有するサイトが多くあること、その使用方法が整備されており初心者にも使いやすく日本語に精通せずとも扱うための敷居が低いこと、更にはそうした書き込まれた情報やアップロードされたファイルが周知されやすいといった理由からか、使用される傾向が一時期は頻繁に見られた。

テロの手段は、自爆テロ・自動車爆弾が特徴である。また、人を最大限殺傷するために基本的に複数の爆弾を同時爆発させ、事件が注目されるよう考慮して早朝に犯行を行う。

2009年01月15日

ロバート・オッペンハイマー

ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ

J・ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer, 1904年4月22日 - 1967年2月18日)は、ユダヤ系アメリカ人の物理学者である。

第二次世界大戦当時、ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導し、原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たしたため「原爆の父」として知られるが、戦後は核兵器に反対の立場を取るようになった。

ドイツからの移民の子としてニューヨークで生まれた。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス・オッペンハイマー、母は画家東欧ユダヤ人のエラ・フリードマンである。

非常に早熟で、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語(最終的には6カ国語を操った)を学んでいた。一方で運動神経にはあまり優れず、同世代の子供たちと駆け回って遊ぶことはほとんどなかった(ただしセーリングと乗馬は得意だった)。彼はハーバード大学に入学し、化学を専攻した。1925年に最優等の成績を修めてハーバード大学を3年で卒業すると、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学んだ。オッペンハイマーはここでニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入っていくことになる。彼は実験物理学が発展していたケンブリッジから、理論物理学が発展していたゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得した。ここでの業績には、マックス・ボルンとの共同研究による分子を量子力学的に扱う「ボルン-オッペンハイマー近似」がある。1929年には若くしてカリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執った。1936年には教授となる。生徒などから呼ばれた愛称は「オッピー」。

第二次世界大戦のさなか、1942年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始された。オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』と呼ばれている)の後、日本の広島、長崎に落とされることになった(→広島市への原子爆弾投下・長崎市への原子爆弾投下)。

弟のフランクが後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で語った所では、世界に使う事のできない兵器を見せる事により戦争を無意味にしようと考えていたそうであるが、人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしてもそれを今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していたそうである。

水爆反対活動と公職追放
戦後は核兵器の国際的な管理を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、かつソ連との核兵器競争を防ぐため働いた。水素爆弾など核兵器に対して反対するようになったため、「水爆の父」ことエドワード・テラーと対立した。

冷戦を背景に、ジョセフ・マッカーシーが赤狩りを強行した。 これがオッペンハイマーに大きな打撃を与える。妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン(Jean Tatlock)は、アメリカ共産党員であった。また自身も共産党系の集会に参加したことが暴露された。1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分(事実上の公職追放)とした[1]。オッペンハイマーは私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯に渡って抑圧され続けた。

後年
オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神が自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子を説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死なり、世界の破壊者なり」と語った部分を引用してヴィシュヌを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。戦後、原子爆弾を生み出したことへの罪の意識からか、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力するようになった。

1947年にはアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所所長に任命された。

業績
オッペンハイマーは、中性子星の研究にからんで、星の質量がある限度を超えれば、中性子にまで縮退した星がさらに圧潰する可能性を一般相対性理論の帰結として予測し、ブラックホール生成の研究の端緒を開いた。しかし、彼のブラックホール研究は、マンハッタン計画への参画によって中断した。